第3章 嬰児殺し
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せっぱつまった決定
ボリビアとパラグアイの国境近くに済、一年のうち半年は焼畑農耕をし、乾季には移動する狩猟採集者として暮らしている
アヨレオの社会は、その他の伝統的粗放農耕民の社会よりもずっと父系制が弱い
父系の祖先をたどる集団を持って入るが、一緒に住んでいるわけでもなく、政治的目的によって統合されているわけでもない
母系出自で姉妹関係で結合したバンドが、政治的には独立した集団として一定地域を持ち、アヨレオの男性は普通は妻の家族と一緒に住む
ポール・ブゴスとロレイン・マッカーシー(1984)によれば、18世紀から1950年代までは、アヨレオが他の人間と接触することはほとんどなく、出会った場合にはたいてい暴力的なものに終わった アヨレオの生活で他には見られない特徴の一つは、結婚の交渉をするのが年寄りたちではなくて本人たち自身
これも父系出自組織の弱さからきているのだろう
求愛に際して、女性は積極的な役割
同時に一夫多妻であることはまれだが、結婚生活が安定するまでは、短期の同性や恋愛がいくつも続いて起こるのが普通
子どもが生きているのに夫婦が離婚することはめったにない
ブゴスとマッカーシーを驚かせた、彼らの友達のエホの行い
17歳から32歳までに、6回の短い同棲期間を持った彼女は、最初の3人の赤ん坊(息子2人、娘1人)を埋めた
24歳になってやっと彼女は永続的な結婚生活に落ち着き、4人の娘を幸せに育てている
詳細を確かめた結果、エホの母親としての経歴は例外的なものではないことを発見した
子殺しを重大な悲劇として捉えている
このような驚くべきむだと言える事柄が、アヨレオの生活につねにあったのか、それとも最近のストレスに対する反応であるのかは確かめようがない
1930年代には、彼らの生活はボリビアとパラグアイの間のチャコ戦争で乱され、次に鉄道、宣教師、白人がもたらした病気がやってきた
しかし、初期の記録から、チャコ・インディアンの間では嬰児殺しが非常によく見られたことがわかる 主な理由は、母親たち自身によれば、父親からの確かなサポートが得られないということ
他の理由として母親たちが挙げているのは、奇形、双子、または、次の子があまりに早く生まれすぎ、母親の負担が過剰になって上の子の生存が危険にさらされるとき
女性の生活史
自然状態で、毎年や1年おきではなく、もっと長い間隔をおいて出産し、それぞれの子に長い間授乳し、強い母子の絆を10年以上も保つような哺乳類はほんの少ししかなく、ゾウ、おそらくクジラ、類人猿、そして人類ぐらいなもの 先史時代の女性が、たくさん子を産んでいたというのは、よくある誤解
子どもを1ダースも産んだような19世紀の状態こそが例外
歴史時代にはいってから出生率が高くなったのは、比較的最近の技術革新、つまり、動物の家畜化と母乳に替わるものの出現のために起こった、進化的には予測もつかない出来事
人類の祖先の女性たちがどんな出産歴を持っていたかをもっとよく知るには、私たちの祖先と似たような、狩猟採集生活を送っている人々に関する人類学的研究を見たほうがよい
農業の発明以後に大きな進化的変化が人類に生じたという証拠はない
形態、生理、心理の特徴のすべては、少なくとも数十万世代にわたって、農業以前の生態学的ニッチェの中での生存と繁殖の差異によって形成された
南西アフリカのカラハリ砂漠に住む
生活様式が初期のじん類のものに最も近いだろうと考えられる
20人から40人の集団でキャンプをする放浪の狩猟採集民
農業をしない他の民族と同様、女性はおもに植物を採集して必要カロリーの大部分を供給し、男性はおもに狩猟をしてタンパク質を供給する
安定した単位は核家族で、各核家族がそれぞれ独立に出入りすることから、集団の構成はしばしば変わる
家族はしばらくはある親族グループと過ごし、また別のグループに入ったりする
女性の平均初潮年齢は16歳7ヶ月で、ちょうどその頃に最初の結婚をする
夫は妻よりも少なくとも5歳は年上なのが普通で、彼女自身が望んだ相手とは限らない
若いときの出生率は低く、初産はおよそ19.6歳
授乳は、普通は4歳まで、ときには6歳までも続く
子どもが離乳するのは、母親が次の妊娠に気づき、母乳と母親のエネルギーはこれからは下の子のためにとっておかねばならないと、不満げな小さい子に言い渡すとき
クン・サンの女性は栄養状態はよいが痩せており、授乳中の最初二年以内に再び妊娠することは滅多にない
クン・サンの母親も布で赤ん坊を運ぶので、昼夜を問わず、赤ん坊はいつでも好きなときに乳首をくわえることができる
授乳のスケジュールは、最近の産科の理論によってではなく、赤ん坊自体によって決められるので、スポック博士の本に書かれているようなものではない 『スポック博士の育児書』(The Common Sense Book of Baby and Child Care)とは、アメリカの小児科医ベンジャミン・スポックが、1946年に刊行した育児書である。42か国語に翻訳され世界中で5000万冊販売され、1946年以降では聖書の次に売れたとも言われる スポック博士の育児書 - Wikipedia 赤ん坊は日中を通じて、およそ15分ごとに二分間ほど乳を吸う
この率で夜までも続くとすると、1日におよそ100回の授乳
少なくとも始めのうちはそうらしい
このような頻繁な授乳は母親のホルモン状態に影響を与え、排卵を抑制する傾向があるので、次の妊娠が遅れることになる
まれに、母親が上の子を安全に離乳させられると判断するよりも前に次の子が産まれるようなことになると、母親は新生児を捨てるしかないと思うこともあるだろう
ハウウェルは出産500につき6件の嬰児殺しがあると報告しているが、クン・サンの女性もアヨレオと同様、子殺しを重大な個人的悲劇と捉えており、つらい思い出として長く心に留めておくので、この数字は少なめの報告に基づくとみてよいだろう
避妊も中絶も明らかに行われていないにもかかわらず、健康で妊娠可能なクン・サンの女性は、閉経まで生き延びる幸運にめぐまれたとしても、最大5人の子どもしか産まない
どんなに努力してもこの5人のうち平均1人はマラリアその他の病気によって1年以内に死ぬだろう
もっと悲しいのは、もっと大きくなった2人の子の死
病気、事故、暴力などによって、結婚も子どももいないまま死んでしまう
繁殖年齢まで生き延びた一人の女の子は息子一人と娘一人を産んで、その子達も成長して自分自身の子を持つと期待できる
そうできるのは女性の47%だけ
平均の話であり、個人の経験はそれぞれに異なる
例えば、クン・サンの雄弁な自伝の語り手であるニサは、自分のすべての子を、色々な年齢でいろいろな理由でなくsてえしまい、年をとってから寂しい生活を送った(Shostak, 1981) ハウウェルは、クン・サンがあたかも純粋で自然な人間の典型であるかのように、ロマンチックに捉えることの危険を指摘しているが、それは正しい
様々な文化の一つであり、どの文化もそれぞれユニーク
彼らは、何世紀にもわたる他のアフリカの牧畜民との競争の結果、辺境の生体環境に追いやられてしまった
それにも関わらず、これまでに手に入るすべての証拠から、長い出産間隔、長い授乳期間、低い出生率、高い乳幼児死亡率、その他の人口学的詳細といった、ここに述べたようなクン・サンの女性の出産経歴は、たしかに狩猟採集民の典型であり、何千何万年にわたってホモ・サピエンスを特徴づけてきた生活史であるといえる(例えば、Lozoff et al., 1977) 親による差別的な世話
親による世話は明らかに、直接的に親自身の適応度を上昇させる
アヨレオやクン・サンが子殺しする状況を見れば、答えが母親の異常心理にあるのではないことは確かだ
少ない資源を割り当てるための切羽詰まった意思決定
親が育てようと決心した子どもはどれも親の限られた資源の投資を表しており、その投資を他に振り向ければ、もっと多くの適応度上の見返りが得られることもあるだろう
現在の子が将来繁殖できるようになる可能性がほとんどない場合に、その子に世話を与えて将来の自分自身の繁殖の可能性を遅らせたり、危険にさらしたりするような生物は、悪いデザインであるといわざるをえない
出産したばかりのハムスターは、最初に子どもをなめてきれいにしてやる間に、その子の生存可能性を査定する
自然淘汰は、自分自身の適応度をもっとも高めるように親の世話を配分するような個体を作ってきたはずである 包括適応度のモデルによれば自然淘汰は、あたかも以下の三つの仮説的な利益・損失に関する問題への反応として、親による世話を調整してきたはずだと考えられる 自分の子といわれている子と親との間の遺伝的関係はどのくらいであるか?
この子は本当に自分の子か?
子が必要とするものは何か?
もっと正確に言うと、この子が親の世話を自分の繁殖へと変換する能力はどれくらいあるか?
親が子に投資する資源は、他のどのような代替目的に使うことができるか?
研究対象の様々な種においては、親が評価を下し区別をつけるメカニズムは非常に少なくて不完全なものも、驚くほど精度のよいものもある
鳥は卵が潰された巣は捨てる
ハムスターは死んだ子を食べてリサイクルする
しかし、親に寄る区別がそれ以上に及ぶことは少ない
子どもの最終的な適応度はあまりにも不完全にしかわからないので、淘汰は、単純に死んだ子を捨てるぐらいの戦略よりも進んだ戦略を編みだすことはなかったろう
しかしよく研究された例の中には、もっとずっと進んでいるものもある
ウミガラスは、それぞれの巣を互いに数センチしか離れていないように作る海鳥の一種 孵化したばかりの自分の雛や卵さえもちゃんと区別するので、自分の巣の中に転がり込んできた招かれざる卵や、血縁関係にない雛を拒否する(Birkhead, 1978) 近縁種のオオハシウミガラスには、ウミガラスのように子を区別する能力が欠けており、卵や雛を実験的に入れ替えてみても気づかない 親の心理のメカニズムは、進化の理論から演繹することはできず、実証的研究によって明らかにされるべきだ
しかし、理論は、ある条件のもとではどのような適応が有効なのかを示唆してくれるし、それゆえ、どんなメカニズムを探すべきかの指針を与えてくれる
親の適応度に対する子どもの最終的な寄与を、何らかの形で査定できるような親には、明らかに適応度上の利益が生じるはずであるから、親の性向はそのように作られるはず
ホモ・サピエンスのように、親の世話が長期に渡って強力であるような動物では、親にそのような予測の能力があれば、ことさらに貴重
世話を受ける子どものどれもが、母親の一生の労力の少なからぬ部分を表しており、判断を謝れば非常に悪い結果がもたらされるだろう
母親に影響を及ぼすような、子どもの最終的な適応度の「目安」は、丈夫さなどの子どもの性質かもしれないが、季節、食糧の豊富さ、現在の夫の狩猟の技術といったような環境要因であるかもしれない
通文化的研究
多くの旅行者、宣教師、人類学者などに興味を持たれたため、世界の様々な場所で、嬰児殺し、子殺しについての膨大な量の情報が蓄積されている 親の心理が、どれほどの世話を与えるべきかについて適応的に決めるように進化で作られているならば、ある特定の子どもについて親が無条件に投資を与えるのは躊躇するであろう状況として、少なくとも3つが考えられる
子どもと言われている個体が、本当に自分自身の子であるかどうかについて、何らかの疑問がある場合
子ども自身の質に問題があり、どんなに注意深く育てたとしても、親の適応度への寄与があまり望めない場合
ある特定の子を育てようとする努力が、無駄になると考えられるような外的環境にある場合
食物の欠乏、社会的サポートの欠如、上の子を育てる苦労が多すぎることなど
親の心理が自然淘汰によって形成されたのならば、嬰児殺しの状況の分類は、それぞれの状況に対する親の感受性の強さを反映していると考えてよいだろう
極端な文化相対主義者は、ある一つの文化と別の文化を比べると、道徳が全く任意に正反対の方向に変わることがあると信じているようだが、淘汰思考で武装された想像力は、そのような主張には懐疑的 これらの考えの妥当性を検証るには、それを支持するような例証を試みなければならない
私たちは人類学者が通文化的比較と分析のために集めた60の民俗資料を標準資料とした
通文化的調査は、社会科学の仮説を検証するにはきわめて価値の高い方法である
例えば、ダブル・スタンダード(妻の不倫が夫の浮気よりも重い犯罪だと見られること)は、母性は確実だが父性は不確実であるということから生じていると考えたとする この現象に関する通文化的な調査が、すぐにも必要とされる
これと反対の方向のダブルスタンダードが同じくらいにみられるとわかれば、仮説を棄却することができる
この件に関していえば、姦通に関する逆方向のダブルスタンダードはどこにも見られないようなので(第9章 夫婦間の殺し)、この仮説は正しいとみなされる もっと複雑な通文化的検証法としては、社会ごとに異なる現象の関連を見る方法がある
部族間の戦争は、少ししかない獲物をめぐる競争のために起こるという仮説を考えたとする
私たちは、様々な部族社会について、戦争の起こりやすさの指標のようなものを割り当て、次に、1日1人当たりのタンパク質摂取量のような、獲物動物の手に入りやすさを示す指標も作り出す
そして、相関を計算したり、もっと尺度が雑な場合には、2×2の表で頻度の分析をしたりして、ある社会におけるこれらの指標が、他の指標を予測する情報となっているかどうかを査定する
特に、ある仮説が他の仮説と比べて、我々の見出した結果をもたらすだろう確率を計算するという統計的手法を取った場合に、そういう検証をする背景には、表に載せられたそれぞれの社会は、それぞれ独立の事象を表しているという仮定がある
例えば、何か根本的な制限要因があるために、子どもたちは「マ」という音を必ず母親に結びつけることになる、という仮説を提出したとする
アマゾン、ニューギニア、フィンランドで試してみて否定されなかったならば、少しは興味がわいてくるだろう
非常に関連の薄い語族同士を比べているので、同じ言葉が使われている可能性など、ほとんどないといえるから
もちろん、人間の文化は、統計的な意味で真に独立した事象であるとはいえない
このような問題は、文化のサンプルをランダムに選ぶのではなく、体系的に極度に分散させて選び、二つの文化が近い過去に共通の祖先を持つことも、歴史的な接触を持つこともないように選ぶことで、完全とまではいかなくても大幅に回避することができる
私たちが用いた民族的資料は、世界の語族と地理的分布をなるべく広くサンプリングするようにデザインされたもの
子殺しは60のうち39で言及されており、子殺しの起こる状況について何らかの記述があるものは35
このことはもちろん、残りの21の社会では子殺しが行われていないということではないし、子殺しが合法とみなされていないということですらない
人類学者は誰でもある特定分野の活動に研究を限定しているため、民俗資料は完全というには程遠い
確率サンプルはまさにランダムに選ばれているということの不幸な結果として、サンプルの中の多くの社会で記録が非常に少ない
民俗資料の中で特定の子殺しのケースを詳しく記述しているものはほとんどないが、アヨレオやクン・サンでそうであったように、そのようなことを論じることへの遠慮に基づいているのだろう
資料のほとんどすべては、子殺しが起こるような状況の分類や、そのことを合理化する論理など
私たちの研究方法は、それぞれの社会に記述された子殺しの一つ一つの状況を数え上げていくこと
スペンサーとギレンの短い記述は、出産間隔が短すぎるという一つの状況
アイマラの記述は、未婚の母親、近親相姦による妊娠、子沢山の三つの状況
このようにして、35の社会について112の状況を数えることができた
子殺しの起こる状況は、親の意思決定が適応的にできているならば起こるはずの三つの状況に対応している
論点①=赤ん坊は本当に自分の子か?
子殺しが起こる112の状況のうち20はこの問題と関連しており、どれもが、はっきりと父性の不確実さを表している
15の社会では、不倫によって出来た子が子殺しの対象となる
3例では赤ん坊の外見から、自分の部族の血筋ではないと部族の男性が主張したときに、赤ん坊が殺される
そしてヤノヤモ(南アメリカ)とチコピア(オセアニア)の二つの社会では、前の夫との間にできた乳幼児のいる女性を妻にした男性は、妻に、その子達を殺すように要求すると述べられている いくつかの民族誌では、子殺しには男性からの直接の強要はないと書かれているものの、母親の意思決定には、明らかに男性が他の男性の子供を育てたくないという事実が影を落としている例がある
例えばオジブワ(Dunning, 1959)では「他の男によってできた子を持っている女性とは結婚しないほうがよいという考えは、非常に強くあるようだ。そして、結婚はすべての女性にとって必須なので、嫡出でない子は中絶するか殺すかすることになる」 「男性のサポートがない」、「未婚の母親」という題目のもとにあげられている例は、論点①では扱わず、母親の資源や能力に制限があるときという、論点③で扱うことにした
論点②=赤ん坊の質はどれほどか?親の世話を最終的な適応度に変換する能力はどれほどか?
リチャード・アレクサンダーが親は子の「必要」に敏感であるように進化したはずだと書いたとき、「必要」という言葉は、学術的な意味であって直感的に思い浮かべるような意味ではないということを知っておく必要がある 子ども自身が、親の投資を自分自身の適応度に変換する能力のことを指している 私たち自身の倫理的感情がどうであれ、生きる望みのない赤ん坊を拒否することは、適応的な(適応度上昇につながる)親の反応だと理解するべき
奇形または非常に病弱な赤ん坊を殺したり捨てたりすることは、35の社会のうち21で記録されている
その中で、社会全体としては母親のそのような行いをよしとしない、ということが書かれているのは、ブラックフットの人々(北アメリカ)唯一 世界の様々な地域に住む様々な民族で、奇形児は幽霊か悪魔(またはその子孫)であるとみなされており、そのような子殺しは、敵意ある超自然的力との闘いと合理化される
インディアンが子殺しをするのは超自然的な恐怖のため
インディアンの神話には、水浴びをしているときなどに超自然的に妊娠し、その結果、人間の赤ん坊ではなく悪魔の子を産んだ話しがたくさん含まれている
家族だけでなく、村全体にとって不吉だと考えられている
もちろん実際的な意味があるからインディアンは子殺しをするようになったのだとも考えることができる
強い大人になって社会の有用なメンバーになる可能性は非常に低いと知っている
厳しい存続のための争いのもとでは、いっそ殺したほうが慈悲深いかもしれない
しかし、そのような判断は、子殺しの風習の中ではたいした意味を持っておらず、迷信ですべては説明できると私は考えている
多くの人類学者は、彼らの学問にとって正当な主題は、人々がその行動に賦与している意味であって、人々が行動をとる原因や、その行動自体の理解はたいして重要でないと考えている
マーシャル・サーリンズ(1976)「本書は、人間の文化は実質的な活動から構成されており、それらは実質的な有効性にもとづいているという考え方に対する、人類学的な批判である」 他の人類学の大御所はさらに進んで、因果関係の理解の探求そのものを否定している
クリフォード・ジアーツ(1983)は「解釈学的人類学」というものを提唱しており、「社会現象を原因と結果の大げさな布に織り込み、それらを部分的な認知の枠の中に置くことによって説明しようとすることから目をそらすこと」だと述べている エドマンド・リーチ(1982)「社会人類学は、自然科学の意味での科学ではないし、そうあるべきではない。何かといえば、それは芸術の一形態である……社会人類学者は、自分自身を、客観的な真実を追求する者とみるべきではない……」 人々が実際に何をするかというのは重要な問題だが、なぜそうするのかというのは別の問題だ。
通文化的に共通したものも、ある文化に固有のものも、両方とも同じくらい興味深い。
多くの社会が奇形児や病弱な赤ん坊を「迷信的に」殺してしまう
どういうわけか、健康な赤ん坊を「迷信的に」殺してしまうような社会はないし、そうするときには、自分自身の赤ん坊ではなく、他人の赤ん坊を殺す
迷信などという概念に、どれほどの説明力があるのだろうか
論点③=現在の環境は、子育てにとって適切か?
残りの56は、母親の現在の状況が子育ての要求に対処できるかどうかに関したもの
これはいくつかの下位カテゴリーに分類される
双生児出産に関するもの(14/56)
殺されるのは2番目に生まれた子か、弱い方の子か、女の子
奇形児と同様、双生児出産にも悪魔や不自然な妊娠に関する神話が満ち溢れている
双生児の両方ともが殺されるのは、アランダ(オセアニア)とロジ(アフリカ)という14の社会のうちの2つだけであり、ロジに関していえば、その点について民族誌家の記録は相矛盾している 彼はHARFの資料で、双生児の子殺しのあるなしがはっきりと記載されている70の社会すべてを、女性親族または母親の援助者がそばにいるかどうかと、出産したばかりの母親がどのくらいの労働をせねばならないかによって分類
母親が相対的に助力を得られないような社会37のうちの16で双生児殺しがあったが、社会的なサポートによって母親の労働が軽減されている社会33では、2つしか双生児殺しの風習がなかった
早すぎる出産または多すぎる子(11/56)
授乳性排卵抑制が働かず、次の子どもがあまりにも早く生まれてしまったとき ナポレオン・シャニオン(1983)は、ヤノヤモの首長の妻について、上の子を離乳させて危険にさらすよりも新しい子を泣く泣く殺す方を選んだことを述べている 悪い季節(1/56)
コッパー・エスキモーでは、まずい季節に生まれた赤ん坊は、長くてつらい季節的移動のときにうまく運んでやることができず、捨てねばならない 単に貧困や過労のため(3/56)
男性のサポートが得られない(6/56)
誰も父親であることを認めない場合や、子育ての責任をとろうとする男性が誰もいないとき
夫との喧嘩(1/56)
バガンダ(アフリカ)の女性は、激しく夫婦喧嘩したあとには子殺しをすると報告されている 母親が未婚であること(14/56)
子ども父親からの助力を得にくいだろうし、将来、正式に結婚するにあたって、子どもは邪魔になるだろう
母親が出産中に死んだ場合(6/56)
現在の繁殖行動に替わるオプションは時間とともに減少する
若いほど将来の繁殖の見込みが大きい
進化生物学の言葉で言えば、母親の「残存繁殖価」が高い 母性心理が進化で形成されたのならば、母親の繁殖可能年数が減少するにつれて、現在の子を、将来の繁殖のチャンスとの関係で割り引いて考える傾向も減少すると考えられる
年齢が上がるごとに嬰児殺しの比率は下がっていた
次章で見るように、私たち自身の社会においても、子殺しのリスクは母親の年齢と強く相関している
女児にかたよった子殺し
112の子殺し状況のうち97は進化心理学の枠組みで容易に解釈できる
親は親子関係がはっきりしないとき、子供の質が低いとき、状況が好ましくないときなど、最終的に適応度上の利益が得られる見込みの少ないときには、子の世話をしたがらない
しかし、子の世話における差別や子殺しに関係している第四の要素があり、その意味はそれほど明らかではない
女児を選択的に殺す子殺しは多くの仮説を産んできたが、十分に納得のいく説明はまだされていないようである
ロナルド・フィッシャーが50年以上も前に指摘したように、どちらの性の子も、将来の世代に対して半分の寄与をするので、親の適応度の担い手としては、娘も息子も同等のはず 世代の重なりのない集団で、息子の数が娘の数の二倍であるような集団を考えてみる
次の世代の子どもはどれも父親と母親を持つはずなのだから、平均的な娘は、平均的な息子の二倍の数の子を持つことになる
親の世代が自分の孫の数を最大化しようとするならば、数が少ない方の性に投資を振り向けるべき
フィッシャーの議論によれば、淘汰によって、親は必ずまれな方の性の子を好むはずなので、もしみながそれを採用すればそれ以上に勝てる戦略はないという平衡に達した親の戦略は、娘と息子に同等に投資することになる
女児に偏った子殺しはある特定の文化的状況によってのみ引き起こされたもので、おそらくはごく最近のものであり、それに対して有効な適応的対抗戦略を親が生み出すには至っていない、というのは一つの答えかもしれない
しかし、それでは本当に問題を解決することにはならない
女児に偏った子殺しは、親ではなくて誰か他人の利益のために強制的になされている、というのが答えなのかもしれない
この点については後に論じる
しかし、女児殺しはそのもっとも極端な例に過ぎないという、もっと一般的な現象がある
第一に、私たちは女児殺しをその一般的な現象の枠で捉え直さねばならない。
それは息子の優遇
娘殺しは比較的頻度が低いが、それほどはっきりしていなくても、息子を優遇するという現象は驚くほど広く見られる
娘は殺されなくても、例えば、授乳の期間、食事のお椀の大きさ、費用のかかる医療などの点で差別されるのが普通(たとえば、McKee, 1984) 一つの可能性は、息子の繁殖ポテンシャルが娘のそれよりも大きいので、たんに生存を保証する以上の世話を息子に与えると、その親の投資あたりの息子の適応度上昇の期待値が娘のそれよりも大きい、というもの
この仮説は、とくにジョン・ハートゥング(1982, 1985)が提出した、男性重視の相続の説明として有効 女児に対する選択的子殺しの中にもこの仮説が当てはまる例があるかもしれない
金持ち息子の繁殖ポテンシャルは、一夫多妻的結婚や妾の獲得、またはその両方によって非常に高く、また、そのような社会では、娘を上層階級の男性と結婚させ、上層階級の孫息子を得るために、家族が莫大な持参金を払うから
娘は非常にお金がかかることを意味し、一方、金持ち階級にとっては息子は財産であることを意味する
ディックマンは、選択的な女児殺しが、確かに、インド、中国、日本、中世ヨーロッパの非常に階級化された社会では、理論が予測する通りの方向で階級と結びついていることを示した
しかしながら、フィッシャーの性比の理論を厳密に当てはめると、上層階級で息子が好まれる傾向は、下層階級で娘が好まれる傾向によって打ち消されねばならない
階級社会で、下層になると逆転して男児殺しが起こると言う報告は私たちはまだ目にしたことがないが、もちろん、下層階級は上層階級に比べて一般的に記述が少ないもの
フォーランド(1984)は、この問題を念頭に、主に農業地帯であったドイツのレーツェンの1720年から1869年にかけての教区記録をもとに、親族関係のデータを分析した 彼は地主階級では、女児(特に第一子)が男児に比べて乳幼児死亡率が高いが、土地を持たない人々の間では、男児のほうが乳幼児死亡率が高いことを報告している
フォーランドはこのことを、繁殖可能性の高い方の性の子を親がよりよく世話したり、望ましくない方の性の子は無視するまたは遺棄することによって、間接的な子殺しを行ったためだろうと考えている
彼らは戦争と子殺しが、粗放農業社会において、「人口抑制の必要に対する反応」として相補的な要素となっていると論じた
この議論は、生物学者が「お粗末な群淘汰」と呼ぶ誤りの、教科書的典型 彼らは、なんらかの複雑な「適応」が働いて、個体が自分の適応度上の利益を犠牲にし、集団全体の生存を上昇させようとする、根拠のない仮定を置いている(Williams, 1971) しかし、彼らの考えに一抹の真理はあるかもしれない
父系出自の親族集団間につねに敵対関係が存在し、力関係が拮抗している場合には、女児殺しが多くみられ、おそらく他の地域よりも多く見られる
例えば、ヤノマモやニューギニアの一部
これらの社会の男性は、彼らが男児を好むことを戦士が必要だからと説明するが、事実、弱い父系集団はしばしば全滅させられ、女性が略奪されていくのが普通にあることを考えれば、彼らのこの理由付けは、本当にその通りなのだろう
そのような子殺しの一つの帰結は女性の不足
女性の略奪がそもそも親族集団間の対立のもとなのであるから、対立はますます悪化することになる
もしも、この悪循環が、いくつかの粗放農耕民の間で起こっていることを正しく表しているならば、ディヴェイルとハリスが、なぜある特定の社会だけがこの悪循環に陥り、他の社会は陥らないのかと問うたことは正しかったのだ
その他の興味
まだ論じていない11の例のほとんどは、明らかに、親以外の人間たちによる介入と強制を反映したもの
もっともはっきりした例は、バガンダ(アフリカ)の族長が、地位継承のライバルを取り除くというはっきりした目的をもって、傍系親族の男児が産まれると、それを殺すように命令したという例 ティブの語り部であるアキガ(1939)が、穀物が不作だったときに儀式的生贄を行うことに関してそれとなく触れている 「男が殺されるという人もいるが、一番よく知っている人たちは、それは男ではなく赤ん坊か、堕胎した女性からもらってきた胎児だと言っている」
アキガは犠牲者がどのように選ばれるのかについてはほとんど述べていないが、彼の話から、赤ん坊を殺す人間と赤ん坊とは血縁関係にないと考えられる
民族誌に語られている儀式的な首狩りなどのいろいろな社会における生贄では、犠牲者は、明らかに誘拐されてきた非血縁者
全く見知らぬ人間か、誘拐者と長く敵対関係にある人物か
純粋に魔術的な理由で起こる子殺しがあと二つ挙げられているが、詳細がまったくわからず信憑性にかけるので、よくて「噂」悪くすれば「中傷」だろう
イスラム教徒の著者が、ソマリ人はイスラム教に改宗する前の悪い時代に、不吉な星の下に生まれた赤ん坊を殺していたと主張している トゥルキーズ人(オセアニア)も、いつとはわからないが近代的な倫理観が導入される以前に、健康な赤ん坊でも、迷信的に幽霊だと言われった赤ん坊を殺していたとされる 子殺しの理由としておそらく驚くべきなのは、三つの社会(タラフマラ、アイマラ、クーナ)で記録されている、近親相姦で生まれた子 子どもの質が低いという懸念に基づいていると解釈できるかもしれないが、もしそう決めるのなら、奇形その他の損傷がはっきりしているときだろう
これらの例のどれもが、子殺しは、他者から母親に強制されるものであることが匂わされている
さらに、これら三つの全ての例で、少ない記述から類推されるのは、問題は近親相姦にあるよりも、むしろ赤ん坊が非嫡出であることにあるらしいということ
最終的に、もともとの112の記述の中で、子殺しをする人間が自分自身の適応度を下げていると考えられる例は、たった4つしかなかった
この4例にすべてにおいて、殺すのが男性であるのは興味深い
バガンダの族長に関するもので、傍系親族ばかりでなく、自分自身の子でも、それが息子であった場合に殺した例で、息子が産まれるのは父親が死ぬ印であるという理由 これは、本当に迷信が縁者びいきの自己利益追求を上回った例と言えるかもしれないが、ここですら、族長の心配は後継者の出現を遅らせるところにあるという、現実的な理由付けが働いているに違いない(Southwold, 1966) 「トバの男性は、娘婿が気に入らないと、結婚した自分の娘の赤ん坊を殺すことがある」とカースティンが主張しているもの 残念ながらこれ以上の記述はないが、これはたまたまあった話で、こういうことがつねに行われていたということではないらしい
「ワティワティの人々は、彼らの女性がトンボウに嫁いで生まれた子どもは、すべて殺していたものだ。それは、ヴァスを作らないため、すなわち、姉妹の息子は自分たちの重荷になるからだ」
たくさんある中の特定の二つの村の間の争いを指しており、民族誌によれば、ここでいわれている「姉妹の息子」というのは、明らかに血縁関係の薄い親族を指している
この民俗資料において、子殺しの理由として表されているもののすべての中で、どう見ても殺人者の適応度的利益に反することが明らかなたった一つの例は、ヤノマモである(Changnon, 1967) 「若い夫婦は、妊婦と授乳期間中の長い性交回避タブーをよく思っていない。女性は、妊娠したとわかったときから子どもを離乳するときまで、性的関係を持つことを許されない。そのような事態に直面した若い夫婦の中には、赤ん坊の性がどちらであれ、子殺しをすることに決めるものがある」
この驚くべき例では、ヤノマモの夫婦は、子どもという形に現実化された自らの適応度を、単なるセックスの快楽のために犠牲にするという
「最も非社会生物学的な」理由が、文化人類学者の中でももっとも熱心に、自らの研究に包括適応度の理論を応用しようとしているナポレオン・シャニオンによって記録されたというのは皮肉なことだ もしこの動機が本当ならば、どうしてヤノマモの社会は、性的欲求と親の愛情とが通常の適応度上昇の動機と合致しないようになっているのか、と問わねばならないだろう
そこで一般的にいうと、子殺しが起こって認知されている状況は、子殺しをすることによって行為者の適応度が上昇する可能性の高い状況と、驚くほどよく一致している
大量の民族誌資料を読んでみても、なにか任意な文化的規則や迷信によって子殺しが行われているという記述は見いだせなかったし、親が、社会全体の善のために自分の子どもを喜んで犠牲にして適応度を下げると言う記述もなかった
子殺しによって親の利益が損なわれる用に見える少数の例では、たいていは、自己利益を追求する第三者によって子殺しが強制されていた
特に女児に偏った子殺しの問題など、解けない謎はまだ残っている
また、子殺しの状況に関するはっきりしたデータは、ほとんど手に入らない
それでも淘汰思考によって示唆される危険要因は概ね正しかったといえよう